2013/06/28

6.28 わたしをすくえ われらをすくえ


“いろんなこと見て見ぬふりしてきたからこのままじゃ私もこういう風に死ぬ。
と思える人同士で仲良くしたい
DJパトリックの死から感じること(ジュン☆中山”

momononaka twitter 2013年4月18日20:41


今年の4月、ひとりのDJが亡くなった。
そのことを知ったのは野中モモさんのツイートからだった。
わたしは生前の彼のことを知らないし、もちろん会ったこともない。
けれど彼の死からいくつかの連鎖がみえて、
心を揺るがされたこと。

ジュン中山さんによると、
“パトリックは、HIVポジティブだったけど、
彼の最終的な死因は「貧困」により命を落としたのではないだろうか。
HIVポジティブの問題の他、ひざを痛め歩行が困難とか
仕事の収入がなくなり、貧困に苦しんでいた。
そのストレスにより、病状がますます悪化したのではないだろうか”と。


“朗報も訃報も facebookで知る
こうして 今思っている事を みんなに知ってもらう事が出来る
とても 便利だから わたしも便利に使っている
便利だから 無視する事も出来るし乗っかる事も出来る
関わっている様で関わらない 関わりたいと思いながら躊躇する
本当は気持ちも覗かれてるのに 全てバレてるのに
察していたのに 気付かないフリを わたしはしたのです
「無理」って いったいどこまでが わたしにとっての「無理」なのか
過ぎた事はしようが無いけれど
「これから」があれば 何か取り戻せる事もあるかもしれない
色んな事が頭を過る



このままじゃ私もこういう風に死ぬ。
ぞくっとした。
同情とかそんなじゃなくて、
自分もそうなるかもしれない、って思えたから。


日曜日に “SaveMe, SaveUs”というデモをすることにした。

SaveMeデモのきっかけは、
昨年11月、高円寺のなんとかBarであった、
韓国のコヌーくんの救済イベントでの話しがきっかけだ。

コヌーくんは釜山のアジトというアートスペースのメンバーで、
日本に友だちも多い。
そのコヌーくんの家が爆発して(説明省略)無一文になってしまったので、
Saveコヌーということで、救済イベントが開かれた。
コヌーくんやアジトに集う人やその周辺の人たちは、
再開発や原発や米軍基地問題、云々、、
日本と似たような問題を抱える韓国の社会で、
音楽や美術を通じて、タフで伸びやかな運動をしている。
なんだかわたしのいる状況ととても似ている。
他人の気がしない。
放っては おけない。
コヌーは救われなければならない。

なので自分のできることを、、と思って、
わずかばかりのお金を出そうとするけれど、
自分のその手の血の気のなさに、眼が醒める。

原発やら、TPPやら、基地問題やら、憲法改正、ダンス規制やら
気の滅入ることばかりで、デモもするけど、だからどうってこともなくて、
生活は苦しくなっていく。
実際、お金はどんどんなくなっていくけど、
お金の問題だけでもない。

気がついたら、
わたしのすきな場所、人が心を病んだり、消えていってしまう。
がんばっていた人がいなくなる。
そんなことが身につまされる。
そして わたし自身もすり減っていく。
うすくなっていく。
そのうち夜の闇に消えてしまうようにも思えたり。

わたし、孤独死するんじゃないかな、
ふと、そう思う。


コヌーは救われなければならない。

パトリックも救われなければならなかった。

大阪で助けてとすら言えず餓死した親子も。

わたしも救われたい。

わたしたちは救われなければならない。


このデモが何のためのデモか解らないと人は言う。
嗤う人もいる。
それが健全な反応なのかもしれない。

それはそれでその人はよいのだ。
とてもラッキーなことだと思う。

これは生きづらさを抱えた人間の「生きさせろ」という叫びなのだから。

そして、すくえと言いながら、
救いを乞いているわけではなくって、
助けてって言いたいってことなのだと思う。
言っていいんだってこと。

いま言えなくなっている人が、
わたしのようないい加減な人間が助けてって言ってるのをみて、
あんな奴でも言ってるんだから好き勝手に言っていいんだって思ってほしい。

強いものが弱いものを叩くのは悲劇だけど、
弱いものがより弱いものを叩くのは地獄だ。

わたしも我慢しているだから、
あなたも我慢しろと、弱いもの同志が口を塞ぎ合う。
そして沈んでいく。
そんな世界って、何なの。


同じ日、同じ場所、同じ時刻に、
反韓排斥デモが新宿である。

そこで呪いの言葉を吐く彼らにもわたしは同じことを思う。
同じ日にあるふたつのデモは、すごく対照的にみえるけれど、
わたしは根はつながっていると思ってる。

排斥の言葉自体は許されるべきものではないけれど、
人を貶めることでしか自分の足下を保てないなんて、
なんて救われてこなかった人々なんだと思う。
自分の存在の軽さに耐えられないんだろう
歪まされたんだろう
屑と言われたんだろう
死ねと言われたんだろう
だから殺せと言うんだろう

わたしは呪いの言葉は人を殺せることを知っている
だからわたしは屑とか死ねとか、どんな酷い奴でも死んでも吐かないが
彼らには差別という毒しか残されなかった
毒は中毒となる
それがあれば救われるという幻想
毒は手放せなくなる
彼らこそ呪いの言葉を吐く前に救われるべき人々だったのだ。

そこを歩かないで、
こちらを歩いたらよいのに。
誰かを殺せという叫びも、
わたしをすくえという叫びも、
生きてるだけですばらしいという歓びに変わればよいのにと思う。
そのために歩く
わたしを曝す
呪を祝で覆す

いつか彼らがこっちの路を歩くようになればいい


わたしをすくえ
われらをすくえ



6.26 Where Water Comes Together With Other Water






 


ここが囲われたものでないのなら

この川も いつか

海に流れつくでしょう