2012/02/20

1.19 ENTER THE SUGINAMI

、、、(きのうのレターの続き)ということで、
きょうは杉並デモに行ってきました。

最近、旗とかスタッフとかで太鼓を叩くのも減っていたので、
きょうは思いきり、存分に、自由に、太鼓を叩いて、
原発への怒りをあらわし、
いっしょに歩く人たちへのエールと、
脱原発、と声をあげた街の人たちへの拍手と、
車イスで沿道から手をふってくれたおばあちゃんに喝采を贈った。

きょうの杉並デモはDJサウンドカー以外にも、
カラオケカーとか、移動する「なんとかバー」とか、
杉並の街や人々をそのまま露出したような、てんこ盛りデモ。
杉並の商店街のご老人たちも大変ハッスルされたらしい。
子どもたちもたくさん歩いたらしい。
カラオケで多くの唄が歌われたらしい。

全部みてないけど、
そんな街と人とデモが交錯している空気が、
行く路、行く路、漂っていた。


すばらしい。
こんなすばらしいことがあるかってくらい、気分がよかった。

きょうのデモだけで原発問題は解決はしないけれど、
こういうことで人々が励まし合うっていうのが重要なんだと思う。

歩く道すがら、
脱原発に賛同の印である黄色いものをもって沿道に立っている方や、
デモに参加できないかわりに、
店頭に黄色いものを飾っているお店をいくつもみかけた。

警察の執拗な警備に腹は立ったけれど、
そんなくだらないことよりも、
黄色いものをみつける よろこびのが数倍わたしを震わせた。

そして、
高円寺に住むドラム隊の友だちの家のベランダに、
大きな黄色いシャワーカーテンが揺れているのをみたとき、
美しくて涙がでた。
そこにある意志の凛々しさ。
未来に向かっている清々しさがあった。
太陽の光をおもわせる、黄色はやっぱり、
しあわせの色ね。

歩きながら、
「幸せの黄色いハンカチ」(傑作)の高倉健になった気分だった。

杉並燃ゆ。

次はどこかな。


とりあえず、、、、きょうはゆっくり眠ろう。

2012/02/19

1.18 怒る自由

脱原発杉並(副題は自由)


あしたは脱原発杉並デモ。
さすがは素人の乱を許容する杉並区、
政党や団体を問わない〝有象無象〟の集団の、有象無象力がハンパない。
まずこのサイトの(副題は自由)っていうのがいい。
それがこのデモの自由さを物語ってる。

誰でもすきなように解釈して参加してよ、ってことでしょう。
この手放し感、すごく大切だと思う。
自由は、人を自律させるから。

最近、3.11が近づいてきたからか、
またデモと祝祭性について、遊びでデモするなとか、不謹慎だとか、
あと自己顕示欲のために使うな、といった意見を目にするけど、
わたしはデモのやり方もそうだし、デモに行く行かないもそうだし、
人がどのようにデモに参加するかは、その人の究極の自由だと思う。
どんな形で追悼しようが、どんな形で怒りを表現しようが、
それが真摯なものであるか、遊びなのかは、
その人のみが判断することで、それを他人が外から決めることはできないと思う。

とくにこういった人が感情をどう持つか、表現するかは、
思想の自由という、人のいちばん根本的で繊細な部分なところだと思うので、
それを「不謹慎」とかいって、他人が判断をするところにないと思う。

わたしはほんとうに哀しいとき、笑ってしまうことがある。


そして、わたしが「不謹慎」ということばに感じる違和感は、
その「不謹慎」の根拠になっているような第三者的な判断は、
実体もなく、実はその人の意見や感想だったりする。
だったら「○○はやめろ」って言ってくれればいい。
その方が話し合いの地平がいっしょになる。
その「○○やめろ」と直接話し合いができないこと、
第三者的な「不謹慎」ということばに主体性を預けてしまうこと、
そこにわたしはとても違和感があるし、
その主体性を持てなさが無自覚を助長し、
その無自覚さが今の原発のある暮しを作ってきたのだと思う。
今までのわたしもそうだったように。
だからわたしは遠くから「不謹慎」と言っている人には、
自分の目でみて、自分のことばで反論してほしい、と思う。
わたしは違う意見であっても、
その人のことばで反論してきた人とは話し合いたい。

ヴォルテールのことばじゃないけど、
“私はあなたの意見には反対だ、
 だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。”
というのはその通りだと思う。
こんなふうに接したいし、自分もありたい。

みんな、すきなようにして、すきなように言えばいい。
デモでなければいけないこともなく、
デモ以外にも、いろんなことできる。
有象無象なやり方をすればいい。
黙っていうこときくことない。
それでもって、自分がわいわい言う分、
自分の意見を押し付けない寛容さを持ちたいものだと思う。
戒めとして。


、、ぐちゃぐちゃ書いたけど、
あしたは杉並デモに行きます。

素人の乱を超える、有象無象のデモになるといいな。
それが杉並だけじゃなくて、お隣からお隣へ広がればいい。
みんなもう、怒って、歌って、叫んで、踊ればいい。





















2012/02/17

2.17 流れよ、S.S.M



とても春が近づいているふうにも思えない気候なんだけど、
街のお店には鮮やかな苺がならんで、
ひとあし先に春を告げてる。


季節のものには、その季節をむかえる力があるものだ。
その赤色にそっと力をおすそわけしてもらう。


苺をみると、祖母を思い出す。
甘いものが良いものと信じて疑わず、
祖母が出す苺にはいつも砂糖とミルクがたっぷりかかっていて、
親のかたきのように甘かった。
それがわたしのおやつだった。

幼いころはそれを毛嫌いしていたけれど、
最近はその甘さが懐かしい。
甘さが身体を包んでくれる。

苺を煮る。
少し、甘くして。
わたしはものを煮る音がすきだ。
おいしくなるようにって待っている時間もすきだ。

心臓が、1、2、3、、と数をかぞえはじめる。

窓からこぼれてくる冷たい風も、
風の音も、Sweet Soul Music に変える。

2012/02/16

2.15 Nuclear Nation 銀幕のこちら to むこう




友だちが今年のベルリン国際映画祭で、
原発事故後の福島県の双葉町を捉えたドキュメンタリー映画、
「NUCLEAR NATION」(舩橋淳監督)が上映されてたと教えてくれた。
双葉町の他にも、原発を巡る日本の動きとして、
脱原発運動も撮影されたらしく、いつか解らないけど、
野菜デモの様子と、野菜デモに参加していた わたしも映っていたらしい。


今年のベルリン映画祭では、「NUCLEAR NATION」以外にも、
日本の東日本大震災や原発事故を描いた作品も数本上映されたらしく、
岩井俊二監督「friends after 3.11」や、
藤原敏史監督「無人地帯」が上映されたよう。


  『無人地帯 No Man's Zone』(2011)





映画が世界に向かって語り始めた。
その銀幕の中をわたしたちは突き進んでいる。
わたしたちが歩くことで映画ができる。
それが今は可能になっている。

ベルリンにいた世界の人々は、
これらの映画をどのように観たのだろう。
銀幕の向こうがわ、と観ただろうか。

銀幕を飛び抜けて、観てくれた彼/彼女らと話がしたい。
このもどかしさをどうしたらよいだろう。

「Nuclear Nation」を撮影した船橋監督、
自身のブログにあった、共同体についての文章を読んで、はっとした。

この映画が真に捉えているのは、(たぶん)双葉町じゃない、
「主体性を失った無意識」 の主体、わたしたちだ。
双葉町の切り返しショットは、こちら側の わたし。


あの福一の監視カメラを指差した、あの指が示すもの、
それと同じだ。

映画を観てみたいと思った。
観なければいけないと思った。
そしてベルリンでどんなふうに映画が捉えられたのか、
話を訊いてみたいと思った。

銀幕のこちらと、むこうをつなげないだろうか。

監督に連絡をしてみた。
、、観られるだろうか。
観られたら嬉しい。

そして尊大なわがままを言えば、
来る3.11の日、手探りで失われていた主体性持ち、
追悼と怒りのために歩く人々の姿を、船橋監督に撮って欲しい。



「主体性を失った無意識に向けて」
    震災後の日本で何が描かれていないのか。
   それをずっと考えている。
   
   いろいろな課題・・・まだまだ見えていない現実に想像力を巡らせてみる。
原発労働者の現実・・・どんな人たちがあそこで働いているのだろう。
日本の原子力政策が、どのような犠牲の下に成立してきたのか。
50年代〜60年代に自民党と正力が、いかにマスをコントロールし、
「クリーンエネルギー」と謳う原子力導入にたどり着いたのか。
これらは報道の記事やニュースを見れば、事実としては把握できる。
しかし、その実感が限りなく薄い。
この薄さが問題なのではないか、とこの頃思うようになった。
 
原発のある町・福島県双葉郡双葉町。 
箱物の体育館や図書館が交付金により建てられ、仕事を与えられ、
しかし40年後には町そのものがなくなってしまうような、
そんな原子力発電所を持つことがはたして「恩恵」だったのか。
全てを失ってみて、漸くわかった。
 
そう、双葉町の町長は僕に語った。
双葉町から奪い去られたもの。
それはおそらく、自分で判断し、築き上げてゆく共同体としての価値ではないか。
自分たちが、生きてゆく環境を、雇用・保険・福祉を自分たちで生み出し、
少し時がたったら本心が変わってしまう権力の言うなりには決してならないこと。
そうした、精神的なインディペンデンスと二本の足できっちりと立って歩むことが出来る
共同体の生きる力(それは明治中期までは確実に存在していた!)が、
原発の立地地域から、長い時間をかけ、
少しずつ、 しかし、着実に根こそぎ奪い去られていったのだ。
僕たちが都会で贅沢な消費をむさぼっているときに、
一方、地方ではどんな犠牲が強いられいたのか。
日々の責任をまったく意識していなかった僕たちの怠惰な精神、
主体性を喪失した無意識がそこにある。
 
ここにあるのは、中央の繁栄と地方の過疎という根源的問題。
僕の感じる実感の薄さとは、中央と地方の物理的な距離によって
うやむやに消失しているこの大きな、大きな問題から来ているのではないか。
なにごとも中央の価値が、下々までコントロールを及ぼすとき、
人の欲望は周辺から中央へと向かうだけの一方向的世界となる。
もっと複数のリゾームが同時共存する合衆国に、
日本の意識構造を変えてゆくべきではないだろうか。
単数性ではなく、多様性を是とする社会として。
全員が意見を同じにしなくて良いのだ。
   それぞれの共同体でそれぞれの価値を生み出し、互いにリスペクトしてゆく。
  そんな価値観の多様性を許容する社会にシフトすればいい。


  がんばろうニッポンの裏側を見つめると、
  日本の一義的精神構造の問題が浮上してくる。
(「Deep In The Valley 舩橋淳の映画と批評」)
 The visible and the invisible disaster: Nuclear Nation by Funahashi Atsushi

2012/02/14

2.14. I wish

Blossom Dearie - I Wish You Love

“春には青い鳥があなたの心に歌を届けてくれますように
そしてそっとくちづけてくれますように
だけどそれよりも、
あなたのそばにいつも愛がありますように


7月の昼下がり、
木陰で飲む一杯のレモネードがあなたをひと時涼しくしてくれますように
あなたが豊かでありますように
それよりもあなたが健やかでありますように
あなたのそばにいつも愛がありますように

……


嵐の時もあなたをしっかり守ってくれる場所がありますように
居心地の良い暖炉があなたを温めてくれますように
雪が舞う寒い日にも
あなたのそばにいつも愛がありますように”



 I Wish You Love

2012/02/13

2.11 RE:VIVE NIGHT

きょうの怒りのドラムデモは、初めてスタッフとして歩いた。
そしてデモの最後尾にいて、初めてトラメガでコールした。

始まった頃、後ろの方は
ドラムや鳴りものを持った人もいなくて、
先頭の賑やかさに比べたら少し静かな感じだったけれど、
そのうち少しずつ、声が重なり、
そこにドラムや鳴りものを持った方も少しずつ加わり、
わたしも最初は聴いていただけだったけれど、
思わずトラメガでコールしていた。
今まであんなに抵抗あったのに、、
気づいたら、時々、サークルになって声を出し合っていた。

○○をしたくないとか、実は思い込みで、
自分が何をするか、何ができるかは、
その場で生まれる流れで決めることなんだ。
要はグルーヴなんだ。

そして、
わたしはいつもは先頭でドラム叩いたり旗を持ったりしていたけれど、
後ろからみるデモというのは、また違う景色だった。
わたしは今回、先頭のバナーを友だちと作った。
そこにはこのデモをこうしたい、っていうイメージがあった。
その先頭と、この後ろはまた違う。
先頭を歩く人と、後ろを歩く人もまた違う。
彼らがなぜ後ろを歩いているか、そのことを考えた。

そしてその彼らと呼吸を合わせることの大切さ、
そんなことが少し解った。
声を出し続けて、喉が痛いけど、
その解ったことは、わたしが最近見失っていた部分で、
デモが自分たち、主催側のものでも誰でもなく、
みんなのものである、という基本的なことを教えてくれた。


そんなわたしがこの日感じたことを、
ドラムデモに参加された石丸元章さんの文章に書かれているような気がする。
そう、こういうことなんだ。


   “きのうさ。歌舞伎町ついて、どんちゃん!どんちゃん!すごい音で。
  ツイッターで、見っけてて。
  きのう、ドラム叩きながらの、鳴りものデモが、あったんだよ。
  一番街~区役所通り超えて、ゴールデン街の小路が、最終地点で。


  2012年2月11日、夜のはじめの時刻――。
  その日の、その瞬間だけの、普段は見せない、歌舞伎町の、
  突出した姿としてのデモがあって。
  とうぜん、飛び込んで描いてきた。


  わたくし、が、瞬間に切り撮りたかったアングル、というのがじつはあって。
  デモの行列を、隊列に参加している、最後尾からにある視線から、描いてみたかった。


  わたくし、現在の、デモへの視線は、先頭のさらに先に立ち、
  そこから振り返って先頭を行くものを正面から切り取る…ではないからね。
  意味わかるよね?

  春風に原発デモの最後尾


  新宿の春塵とデモとクラクション


  デモ隊をフルーツの夜照らしけり
  
  新宿のデモ隊とあり紀元節


  デモ隊、というのは、気づかないまま死んでる連中を、ぶっ生き返す!ための、
  社会的な葬送の列なんだ。”
  (石丸元章 twitter)

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  きょうは夜デモだ。バナーをライトで照らしださなければ…。
  素人の乱「原発やめろデモ」などでひとつのブロックを占めるまでになっていた
  ドラム隊が独立し、デモを主催するようになった。
  簡単にいってしまえばそういうことだが、そう簡単じゃない。
  そもそも、ドラム隊にリーダーはいないし名簿があるわけじゃない。
  リズムが他のリズムと呼応するように、
  反原発デモでスネアを叩いていた人がバスドラムの人に呼応し、
  またそこにトランペットが飛び入りし…と次第にリゾーム状の楽団になり、
  「ドカドカうるさすぎるマーチングバンド」と出来あいの名前が付けられただけ。
  それだってRCサクセションの曲名の模倣に過ぎないし。
  だけどデモ主催者はいて、警察対応のスタッフもいて、
  ぼくみたいの毎回参加するファンもいる。
  500人ほどの隊列にドラムが一カ所に固まらないようメインのドラマーを
  二カ所に分散配置するなどの作戦も練られる。
  まあイルコモンズ氏と“普通のアナキスト”の音楽ライター氏がいるところだ。
  最近は、打楽器の音ばかりで、主張が消えてしまっている、
  ということでコールが映える打ち出しかたを工夫したりしている。
  不真面目に捉えられかねないほど、表現が突出しているデモなので、
  しだいにピエロの格好で御馴染みの“クラウンアーミー”や
  大小色彩も様々なフラッグが中空を舞うパレードのようなデモになっている
  (写真は夜デモだから目立つように電飾に照らされたバナーbyボヘミアン・パンチ)。
  つぎはどんな作戦が練られるのか、それは誰にも判らない。
  街の風景が異化され、ワンダーランドが現れる。
  ある意味、デモの原点に立ち返っているといえるが、
  中心が不在なので、非常に今様のデモなのかもしれない。
  (写真、テキスト:一色こうき)

2012/02/10

2.10 怒りのドラム DRUMS OF FURY

2012年2月11日土曜日
集合時間 17:45
集合場所 柏木公園集合 (新宿区西新宿7丁目14) JR新宿駅から徒歩7分
デモ出発 18:00 


昨日締め切りだった、
原発の是非を問う住民投票の実施を請求する署名について、
石原都知事は「作れるわけない。作るつもりもない」と答えた。
2月9日までに約30万人の署名が集まったというけれど、
都知事はこの30万人の意向をひと言で潰した。

この署名に関して、
わたしは単に名前を連ねただけだけれど、
わたしの友人たちは受任者となり、9日のぎりぎりまで駆け回っていた。
今までデモとか、抗議とか、
そういう政治的なことに関わってこなかったような友人たちも、
初めて立ち上がって署名を集めた。
知り合いのお店も受任者に呼びかけて各区の署名用紙を置いた。
場合によってはお客さんからクレームがつくのも覚悟して。
先生をしている友だちは生徒に呼びかけた。
そんなこと、初めてしたと思う。
そして慣れない声かけをして、時々みなで集まって集計作業をした。
そんなふうにみんなで集めた署名だ。
わたしはこの署名で、
まわりの友だちが自分たちの暮しを変えようと、
慣れない署名活動をしているのをこころからうれしかった。
敢えて大げさに言わなかったけれど、
彼らが立ち上がっているのをみていて、
わたしはデモでがんばろうと思った。


きょうは、胃腸も調子悪いし、口内炎も痛いから、
明日のデモにそなえて、ゆっくり身体を休めようとしていたのに、、
この一報で怒りでひっくり返りそうになった。
おかげでものすごい早さでタマネギのみじん切りが出来た。


、、、なめんなよ。

この偏見に満ちた独裁者の都知事の頭には、
いまだに反/脱原発運動は、ヒステリックで無知で野蛮なものの理論らしい。
(「石原慎太郎『日本よ』原発に関するセンチメントの愚」)
なんて偏見に満ちた、粗野な理論なんだ。

“人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、
一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた
野蛮な行為でしかありはしない。”

こんな世界規模の事故を経験してこの認識、、。
東京都民として、世界に恥ずかしい、、。
人間だけが持つ英知、その奢った言い方がもう恥ずかしい。
その人間の奢りがどれだけ環境と生態系に悪影響をもたらしたのか、、
自分たちの首を絞めているのも解らない、そんな英知なんかいらない。
野蛮で上等。

まったく保安員は、 ぜんいんあほ だし、
こんな大人たちに未来はまかせておけない。

街の野蛮なオスカルたち、出ておいで。
ブリキの太鼓を叩いて歩こう。
映画より、もっと暴れてしまえ。



ということで、
怒りに震えつつ、明日を迎えます。
わたしはドラムデモの準備で参加できませんが、
明日はドラムデモの他に、代々木・原宿でも
「全国一斉!さようなら原発1000万人アクション」があります。


では、あした、
新宿でお会いしましょう。