2012/02/19

1.18 怒る自由

脱原発杉並(副題は自由)


あしたは脱原発杉並デモ。
さすがは素人の乱を許容する杉並区、
政党や団体を問わない〝有象無象〟の集団の、有象無象力がハンパない。
まずこのサイトの(副題は自由)っていうのがいい。
それがこのデモの自由さを物語ってる。

誰でもすきなように解釈して参加してよ、ってことでしょう。
この手放し感、すごく大切だと思う。
自由は、人を自律させるから。

最近、3.11が近づいてきたからか、
またデモと祝祭性について、遊びでデモするなとか、不謹慎だとか、
あと自己顕示欲のために使うな、といった意見を目にするけど、
わたしはデモのやり方もそうだし、デモに行く行かないもそうだし、
人がどのようにデモに参加するかは、その人の究極の自由だと思う。
どんな形で追悼しようが、どんな形で怒りを表現しようが、
それが真摯なものであるか、遊びなのかは、
その人のみが判断することで、それを他人が外から決めることはできないと思う。

とくにこういった人が感情をどう持つか、表現するかは、
思想の自由という、人のいちばん根本的で繊細な部分なところだと思うので、
それを「不謹慎」とかいって、他人が判断をするところにないと思う。

わたしはほんとうに哀しいとき、笑ってしまうことがある。


そして、わたしが「不謹慎」ということばに感じる違和感は、
その「不謹慎」の根拠になっているような第三者的な判断は、
実体もなく、実はその人の意見や感想だったりする。
だったら「○○はやめろ」って言ってくれればいい。
その方が話し合いの地平がいっしょになる。
その「○○やめろ」と直接話し合いができないこと、
第三者的な「不謹慎」ということばに主体性を預けてしまうこと、
そこにわたしはとても違和感があるし、
その主体性を持てなさが無自覚を助長し、
その無自覚さが今の原発のある暮しを作ってきたのだと思う。
今までのわたしもそうだったように。
だからわたしは遠くから「不謹慎」と言っている人には、
自分の目でみて、自分のことばで反論してほしい、と思う。
わたしは違う意見であっても、
その人のことばで反論してきた人とは話し合いたい。

ヴォルテールのことばじゃないけど、
“私はあなたの意見には反対だ、
 だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。”
というのはその通りだと思う。
こんなふうに接したいし、自分もありたい。

みんな、すきなようにして、すきなように言えばいい。
デモでなければいけないこともなく、
デモ以外にも、いろんなことできる。
有象無象なやり方をすればいい。
黙っていうこときくことない。
それでもって、自分がわいわい言う分、
自分の意見を押し付けない寛容さを持ちたいものだと思う。
戒めとして。


、、ぐちゃぐちゃ書いたけど、
あしたは杉並デモに行きます。

素人の乱を超える、有象無象のデモになるといいな。
それが杉並だけじゃなくて、お隣からお隣へ広がればいい。
みんなもう、怒って、歌って、叫んで、踊ればいい。