きょうは ひさしぶりに友だちと集まって、
野外でトランペットを吹いた。
雨にも降られながら、たゆたう河をみながら、
相変わらず、ときどき、間違え、ときどきひん曲がった音を出して。
けれどいくつかの音が重なるその瞬間、
目の前の世界が開けたように、
目の前の河は美しかった。
12日、路地と人で
工藤冬里さんと長谷川真子さんのライヴがあります。
さいしょ、「no peace for the wicked」を、悪いものに安らかな時はない、と訳したのだけど、
工藤さんから「邪悪な者に平安はない」にしてほしいという意向があった。
より、強いことばに。
わたしが「楽団」ときいて、日本の楽団で思い浮かべるのは
工藤さんのマヘルです。
30年以上ものマヘルの活動に敬意を感じています。
楽器編成もメンバーも不定形、メロディも不安定、
楽器の音のずれ、不協和音、音の間違いすらも内包していくマヘルは
こちらの世界ではなく、どこか別の世界のようでもあって、
実はこちらの世界のゆがみを映し出しているのだと思う。
そこに優しさと美しさがある。
maher shalal hash baz - Unknown Happiness
OTOTOYでのインタヴュー、
内容がとても良かったところのみ、抜粋。
工藤さんのいう「正しい間違い」、すごく解る。
正しく間違うというのは、覚悟がいるものなのだ。
あるいはノイズであるという覚悟。
そしてパンクであるといういうこと。
ー<ザ・マスター・オブ・ミステイク>とも言われる工藤さんですが、
不協和音や演奏ミスに関しては、どのようにお考えになっていらっしゃるのでしょう?
なるべく間違えたくないですが、間違った間違いと正しい間違いがあると思うんです。
間違えて間違う人は人生が何度でもあるかのようにして間違えます。
人生が一度しかないのに間違う人はそれなりの覚悟があって間違うのですから、
正しい誤り方というのがあるのではないかと思います。
ー社会の流れとして、
間違いと思われるものやノイズとなるものは排除される傾向にある気がします。
例えば、モスキート音を使い若者を一掃したり、
アートと称した起伏のある器具を公園に設置してホームレスを排除したり。
しかし、そうした方法で少数派を排除することは、
根本的な解決でも何でもないと思います。
だからこそ、工藤さんは音楽でそうした部分を表現しているのではないかと僕は思いました。
こうした解釈をどう思いますか?
コーネリアス・カーデユーは、誰かが間違ってもその人だけやり直すことで
曲が複雑で豊かなものになっていくというミニマルの曲を書きました。
音楽家の使命(?)を自覚している作曲態度だと思いますが、
自分はそこまで社会主義者ではない。
やりたい曲を自分のエゴで実現しようとしているだけです。
ドロップ・アウトしたある少数派を代弁しているという意識はありますが、
それはアラン・ヴェガが「スマートな聴衆」と呼んだ層と
重なる面とそれにすら重ならない面とがあります。
ー楽曲に対して言葉はどのくらい重要だとお考えでしょう?
言葉は楽曲よりも遥かに重要です。
歌詞がなくても楽曲は無意識に言語化されていると考えれば、さらに重要です。
双方共音速に支配されています。どちらが先に音速を超えるかで勝負が決まります。
聴く前に泣いているようでは初めから負けています。
言葉は音のフレームです。
ー工藤さんは70年代より活動されていますが、
この期間で大きく変わった考え方や表現方法はありますか?
もし、ご自身で変わったと思うことがあれば教えて下さい。
ずっとパンクだと思っています。
ーパステルズやジム・オルーク、テニスコーツなど数多くのアーティストがマヘルを信奉していますが、
逆に工藤さんがシンパシーを感じたり、
目標としたりするアーティストはいらっしゃいますか?
差し支えなければ、教えて頂けませんか?
mary halvorson、captain beefheartです。