2012/04/26

4.25 午前零時 新しい諧調

晴れたり、曇ったり。
今は、雨の音を聴いてる。

きょう、ひさしぶりに高円寺の街を歩いた。




何百人、何千人と歩くデモもいいけれど、
きょうみたいに顔のしれた人たちと、十人くらいで歩くのもいいね。
夕方の街を、おかしな一行が歩くの。
とっても間抜けで、のんびりしていた。

体調がまだ本調子でないので、ちょっと疲れちゃったけど、
気分はよかった。



あと、10日で止まるって。
5日午後5時ごろから制御棒の挿入などによる出力低下作業を開始し、
午後11時ごろに発電を停止する、
という。
午後5時から、ゆっくり炉が落ちていく。
それこそ「忌・原発」を捧げたい。
そして11時、炉が完全に落ち、
時計の針が午前零(ゼロ)時を指したとき、喪が明けるのだ。

それを見届けたい。
証人になりたい。
みなで立ち合いたい。

いまひとつの詩が浮かぶ。

4、5年前、わたしは自分の展示で、
絵を描いて飾り、ときどき朗読をしていた。
聞き手のいない、とわず語り。
それはたとえばこんな詩だった。
いま読むと、今まさに、この時、なんじゃないかって思う。

つま弾き、音が放たれ、新たな行進が始まる。
子どもたちを解放する。その音を呼ぶ、子どもたちの声がする。
そしてそれにむかう人びとの足音が聴こえる。
その、夜明けまえ。

あと、十日。



 『お前の指先が太鼓を一弾きすれば、音という音が放たれ、新しい階調は始まる。
  お前が一足すれば、新しい人々は蹶起し、前進する。
  頭を廻らせば、新しい愛だ。頭を復せば、---新しい愛だ。
 「俺たちの運勢を変えてくれ、俺たちの災難を飾ってくれ、
  先ず時間という奴をどうにかするんだ」
  と子供たちがお前に歌うのだ。
 「俺達の運と望みのとの中味を、何処でもかまわぬ、育ててくれ」
  人々はお前にたのんでいる。
  お前は幾時でもやって来て、何処へでも行くだろう。』
   ランボオ「ある理性に/飾画」