晴れたり、曇ったり。
今は、雨の音を聴いてる。
きょう、ひさしぶりに高円寺の街を歩いた。
何百人、何千人と歩くデモもいいけれど、
きょうみたいに顔のしれた人たちと、十人くらいで歩くのもいいね。
夕方の街を、おかしな一行が歩くの。
とっても間抜けで、のんびりしていた。
体調がまだ本調子でないので、ちょっと疲れちゃったけど、
気分はよかった。
あと、10日で止まるって。
5日午後5時ごろから制御棒の挿入などによる出力低下作業を開始し、
午後11時ごろに発電を停止する、
という。
午後5時から、ゆっくり炉が落ちていく。
それこそ「忌・原発」を捧げたい。
そして11時、炉が完全に落ち、
時計の針が午前零(ゼロ)時を指したとき、喪が明けるのだ。
それを見届けたい。
証人になりたい。
みなで立ち合いたい。
いまひとつの詩が浮かぶ。
4、5年前、わたしは自分の展示で、
絵を描いて飾り、ときどき朗読をしていた。
聞き手のいない、とわず語り。
それはたとえばこんな詩だった。
いま読むと、今まさに、この時、なんじゃないかって思う。
つま弾き、音が放たれ、新たな行進が始まる。
子どもたちを解放する。その音を呼ぶ、子どもたちの声がする。
そしてそれにむかう人びとの足音が聴こえる。
その、夜明けまえ。
あと、十日。
『お前の指先が太鼓を一弾きすれば、音という音が放たれ、新しい階調は始まる。
お前が一足すれば、新しい人々は蹶起し、前進する。
頭を廻らせば、新しい愛だ。頭を復せば、---新しい愛だ。
「俺たちの運勢を変えてくれ、俺たちの災難を飾ってくれ、
先ず時間という奴をどうにかするんだ」
と子供たちがお前に歌うのだ。
「俺達の運と望みのとの中味を、何処でもかまわぬ、育ててくれ」
人々はお前にたのんでいる。
お前は幾時でもやって来て、何処へでも行くだろう。』
ランボオ「ある理性に/飾画」