2012/04/04

4.1 嘘と真実

4.1脱原発デモ『エイプリルフール・デモンストレーションinくにたち』
(わたしの歌はひどいので映像をみる勇気はありません)


エイプリル・フール。
一年に一日だけ、嘘をついてよい日。
けれど、
こんなに毎日出来損ないの小説のような嘘があふれる今、
嘘がない日の方が特別だろう。
同じ嘘でも、
じょうずな嘘をつくには真実を知らねばならない。

ある小説家のことばを借りれば、じょうずな嘘をつくには、
私たちの中のどこに真実が存在するのかを明確にしなければなりません」。


先日のレベッカ・ソルニットの来日講演
《災害ユートピア》論から検証する3.11」で、
パネリストの佐藤泉さんが言われたことが、
わたしは誰かと会うとき、話すとき、常に胸にある。


「…今までわたしたちはリアリティを奪われてきたと思います。
原子力社会というのは、全面的に検閲社会だったと思います。
原発が54基もあった、そういうことを自分の不勉強もあったけれど、知らなかった。
未来のエネルギー、クリーンなエネルギーというキャンペーンがありました。
あの中でわたしたちは自分たちのリアリティを奪われてきたと思います。
そしてもうひとつ、現在のリアリティもです。
54基あったうちの、今(2012.3.12現在 動いているの)は、
あとふたつでしょう?
わたしたちは脱原発の価値というのを既にここまで実現してきました。
そこにリアリティを与えるまい、と今マスメディアは動いているように思います。
なので、マスメディアに語られてしまうのではなく、
自分たちの価値と自分自身の姿を映し出すような、
そういうリアリティをわたしたちは自分たちで作っていく、
そのために感性の組織化が重要だと思います。」

「わたしたちは、最悪な記憶の中からでさえも、
何かを取り出すことができなければ、
わたしたちは文化というものをつくっていくことはたぶんできないのでしょう。」
「立ち上がったユートピアがわたしたちの生活に定着していくのか、
それともほんとのつかの間のユートピアして忘れ去られてしまうのか、
それはわたしたちの文化や感性の力にかかっているのではないか。
わたしたちは(3.11を通じて)この間、
大変美しい「怒り」の感情というのを目の当たりにしました。
デモの中でわたしたちの怒りの姿を仲間の中に映し出す、
それによってわたしたちは自分たちの感情をやっと理解する、
そんな流れもあったと思います。」
「感性の組織化というのはどれくらい豊かに怒ることができるか、
どれくらい豊かに悲しむことができるか、
それを個人でもなく、仲間の哀しみのうちに、
自分の哀しみを映し出すような形で、
文化による連帯/共同性の感覚というのがどこまでできるか、
それにかかっているのだと思います。」
(2012.3.13 佐藤泉「レベッカ・ソルニット来日講演 《災害ユートピア》論から検証する3.11」



デモや抗議で人びとと、友だちと顔を合わす。
気のおけない友だちたちと楽器を練習したり
飲んだり、食べたり、散歩したり。
そんなことをしながら、
わたしは自分の感覚と感情とを再発見しているのだと思う。
デモや抗議で、旗や楽器や その他思いついた何かをするとき、
わたしはそれを自己表現としてではなく、
できるかぎり他表現でありたいと思っている。
(自分がいかに他を表現できるかということ)
なんだろう、巫女みたいなものかな、、違うか。
実際、巫女のバイトをしていたことがあるからそう思うのかもしれない。
わたしの性格によるものだろうけど、
わたしはわたしの感覚を信じていない。
思い込みや間違いがあるし、そもそも不安定であるから。
そして我が強い。
だから信じないようにするくらいがちょうどよいと思っている。

だからデモや何かのときには、
わたしがみている世界と、
(映画の切り返しショットのように)誰かがみている世界を照らし合わせ、
わたしたちの真実はどこにあるのかを探り、
確認し、確かめ合い、支え合う。
互いのなかに歓びをみつけ、
歓びのなかに哀しみをみつけ、
哀しみのなかに怒りをみつけている、
そんなことをしているのだと思っている。

佐藤さんの言葉は、
そんなわたしがもやもやしていた部分を代弁してくれたように思えて、
わたしはうれしくて、涙がでるほどだった。

そして嘘の日の4月1日、
何が嘘かを確かめるために、
この日はわたしは、真実だけを口にした。
いま在るリアリティはこれだ。
この日、たしかめ合った真実はこれだ。


手をとり 立ちあがれ
さあ、あとは 泊 ひとつだけ。

もうひとつも 原発は 動かさない 動かせさせない
もうあとには ひかない
闘いはこれからも続く

みんなで廃炉
みんながチャンピオン 
みんながエナジー
原子力はいらない


、、って書いたことが全部が全部、嘘かもしれない。
ほんとうかもしれない。
それはわたしだけでは決められない。
わたしたちが決める
、、、これは真実でしょう?