てれれの上映会に行く前に立ち寄った書店で、
椹木野衣さんの「たたかえ暮しの“手”帖」という文字に思わず、
『花森安治 —美しい「暮し」の創始者』を買った。
そのあとの、てれれの上映会の作品、
早川由美子さんとお話したこと、
ティーさんがベトナムで立ち上げたメディアセンターのコンセプト、
それらとこの『暮しの手帖』と花森安治のことばがリンクした。
今の『暮しの手帖』について、とやかく言う気は失せてしまった。
こうしてほしい、と思うこともない。それもさびしいけど。
各執筆陣の花森安治評は読み応えがあるし、
執筆にあたって、『暮しの手帖』を百巻を通読したという
詩人・茨木のり子さんの『暮しの手帖』の分析もなるほどと唸った。
けれど、今、いちばん胸に刺さったのは、
花森安治が三十年も前に問うた、三つの問題。
....
問題を三つ出す。
問題ごとに、その答えを出した人に、それぞれ一兆億円を差し上げよう、
というのである。
問題の一つは、ガンを完全に治すクスリを、見つけて下さい、ということ。
問題の二は、汚れた大気や海や川や湖の水を、
もと通りのきれいな空気や水にする方法なり装置を、見つけてほしい、ということ。
問題の三は、ぼくらの体の中に、こんなことをいっているあいだにも、
じわじわとたまってゆく放射能とか、いろんな有害な物質を、
どうしたら取り除くことができるか、あるいは、どうしたら、
それを無害なものにかえられるか、それを徹底的に解決して下さい、ということ。
この三つである。
.........
(「君もおまえも聞いてくれ」花森安治/昭和四十七年3月文藝春秋)
この問題にいまだ有効な答えは出ていないだろう。
先週の土曜日、14日は花森安治の35回目の命日だったという。
わたしはその日、横浜のデモにいた。
だから何だっていうのだ、問題は解決していない、
というのは事実あるだろう。
というのは事実あるだろう。
、、けど、 “そこ” に向かってはいるだろうと思う。
痛みや迷いや、希望をひっくるめながら。
ね。